【死因:肺がん】俳優,土屋嘉男が死去!結婚歴や家族(嫁,子供)は?黒澤明の関係は?

こんにちは坊主です!!

今回は、『土屋嘉男(つちやよしお)』さんを取り上げます。

彼といえば、日本の映画俳優として知られています。

彼は東宝特撮映画には欠かせない存在であり、ゴジラシリーズや怪獣大戦争、ガス人間第一号などに出演し特撮ファンの間では有名な人物です。

また大人気特撮テレビドラマ「ウルトラマン」にも数々出演し、大人から子供まで幅広い年齢層の方々の支持を集めていました。

そんな特撮映画俳優として知られている彼が、2017年2月8日に肺がんのため、死去していた事が判明し、世間の注目を集めています。

今回はそんな彼について調査してみました。

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俳優,土屋嘉男が死去! 死因:肺がん

冒頭でも掲載しましたが、彼は2017年2月8日に肺がんのため死去していた事が判明し世間の注目を集めています。

この事について、2017年9月6日に配信された『産経新聞』は次のように報じています。

”「七人の侍」など黒澤明監督作品の常連だった俳優、
土屋嘉男さんが、
2月8日に肺がんで死去していたことが分かった。

89歳。

お別れ会などの日取りは未定。

喪主は妻みどりさん。”

同紙が掲載している通り、彼は肺がんのため2017年2月8日に死去していた事を報じています。

なぜ今になって彼が死去していた事が報じられてのでしょうか?

この事について調査しましたが、詳細な情報は得られませんでした。

しかし彼が死去していた事が判明した理由は、彼の元マネージャーを務めていた方の取材で明らかになったと報じられています。

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俳優,土屋嘉男の結婚歴や家族(嫁,子供)は?

今回の訃報が報じられ、彼の私生活について関心が集まっています。

上記で引用した「産経新聞」では、喪主を務めるのは妻「みどり」さんと掲載している事から彼が結婚しているのは明白です。

しかし彼の子供に関しての記述はされていません。

そこで、彼らの子供について調査しましたが、彼のWikipediaや公式プロフィールには子供に関しての記述はされていません。

しかし2chでは以下のようなコメントが見受けられました。

”名無し2005/04/23
現在は奥さんと二人暮しだが、
嫁がれた娘さんがいて、
既にお孫さんもいますよ。”

同サイトには、2005年時点では彼に娘がおり、すでに孫も居ると掲載されています。

この情報を元に、娘や孫の素性を調査しましたが、ネット上では子供や孫に関する情報は得られませんでした。

彼の年齢(89歳)を考えれば、子供や孫が居ても不思議ではありません。

しかし私生活を公表していないため、このようなコメントを断定する事はできません。

また彼の私生活の調査に伴い、彼には離婚歴がある事が判明しました。

彼は以前、宝塚歌劇団に所属していた「近衛真理」さんという方と結婚していた事が判明しました。

この事について、ウェブサイト『タカラヅカ キラキラ人脈』は以下のように掲載されています。

”近衛真理

土屋嘉男(俳優)と結婚のち離婚、
妹は近衛杏(S38)”

この事から彼には離婚歴があり、2017年現在の妻「みどり」さんは再婚相手という事になります。

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俳優,土屋嘉男と黒澤明の関係は?

冒頭でも掲載しましたが、彼は東宝特撮映画の俳優として知られています。

また特撮映画以外にも日本映画界の巨匠「黒澤明(くろさわあきら)」さんと親しい関係であったとされています。

黒澤監督といえば、壮大な世界観や人間性に徹底した作品で知られ、「羅生門」や「生きる」、「七人の侍」など数々の作品を手掛けています。

黒澤監督は生前、その数々の作品が認められ、アカデミー賞を初め、世界三大映画祭といわれる「ヴェネチア」「カンヌ」「ベルリン」で賞を得て、映画史において大きな影響を与え日本はもとより世界各国の映画監督に影響を与え続けている人物です。

そんな輝かしい功績を収めた黒澤監督と彼は親しい関係にあったとされています。

彼はと黒澤監督の出会いは、映画「七人の侍」のオーディションだったと言われています。

彼自身はこのオーデションに参加していなかったのにも関らず、目を付けられたそうです。

その後このオーデションに合格し、黒澤監督が手掛ける殆どの作品に出演し彼の名が一躍有名になります。

また公私共に交流を深め、黒澤さんの自宅に下宿したりなど、家族同然のような関係であったとされています。

この事について、彼のWiikipediaには以下のように掲載されています。

”1950年、
俳優座養成所に2期生として入り、
1952年に映画デビュー。

その後、
俳優座のトイレで映画『七人の侍』のオーディションのために来ていた黒澤明監督に、
土屋自身はオーディションに参加していなかったにもかかわらず目をつけられた。

また、
『七人の侍』撮影中は黒澤監督の家に下宿し、
その後も公私共に交流を深め、
それ以降も『赤ひげ』までの黒澤作品のほとんどに出演している。

1953年に俳優座に劇団員として入団するものの、
この『七人の侍』が契機となって1954年に退座し、
東宝と専属契約を結んで映画界に転身した。”