【ラージ殺人事件】馬場恒八+小笠原重季の顔写真画像は?

時事

こんにちは。坊主です。

今回は、1980年(明治23年)に発生した「ラージ殺人事件」を取り上げます。

この事件では、開校間もないミッションスクールに2人組の強盗が押し入り、カナダ人教員のトマス・アルフレッド・ラージさんを殺害しました。

また、ラージさんの妻も強盗に襲われており、指を切断される大怪我を負っています。

犯人の名前は「馬場恒八(つねはち)」と「小笠原 重季(しげすえ)」であることが公表されていますが、一体、どんな人物なのでしょうか?

ラージ殺人事件|馬場恒八+小笠原 重季の顔写真画像は?

ラージさんを殺害した馬場および小笠原ですが、事件が起きたのが明治時代ということもあってか、2人の顔写真(画像)は1件もヒットしませんでした。

海外のサイトでも写真がヒットしないことから、2人の画像は残されていないと思われます。

なお、今回の事件が解決したきっかけは小笠原の自供でした。

この時、小笠原は馬場が共犯者であることも自白しており、これがきっかけで犯人が判明しました。

しかし、共犯者の存在が判明した時点で既に馬場は網走監獄で死亡(獄中死)していたのです。

しかしこの時、馬場恒八は網走監獄ですでに獄死しており、また小笠原も明治25年の強盗事件で13年の刑期に処せられ東京集治監に服役中でしたがラ-ジ殺人事件は時効が成立していたため不問とされ、明治31年の英照皇太后の恩赦で9年9ヶ月に刑期を短縮されていたため、小笠原重季はラ-ジ殺人事件が解決した直後の1902(明治35)年12月17日に満期出獄します。

※「https://deepazabu.blogspot.com/2016/04/blog-post.html」より引用

上記の通り、小笠原が事件を自白した時点で既に時効が成立していたため、死亡した馬場と併せて2人が罪に問われることは無かったのです。

事件の犯人こそ判明したものの、非常に後味の悪い結末となってしまいました。

世間の反応

明治期の刑事は、実は江戸時代の目明し上りが多かった。

倶利伽羅紋々(全身入れ墨)なんていうのもいたそうで、さすが具合が悪く、夏場でも長袖シャツを着ていたそうです。

今のような管轄割ではないので、栃木当たりまでぐるっと回って温泉に入って、なんて言う話も残っています。

で、宿の女中に入れ墨を見られて偽刑事と思われたそうです。

十手(じゅって)をさしていたので、正に目明し。

今とは全く違う江戸時代に近い話。

明治期の「キリシタン禁令」の高札なんていう物も、昔は骨董屋に結構出ていましたね。(明治6年撤廃)

わずか17年前まではキリスト教禁止だったわけです。

※「Yahoo!ニュース」より引用